2025/9/18
9月も後半戦に入りました。相変わらず厳しい残暑が続いています。猛暑予報も明日までとなっていますので、過ごしやすい秋の陽気に移り変わっていくことを願っています。
先日、こんな言葉を耳にしました。
「給料をもらって働く人」と
「働いて給料をもらう人」は違う。
給料とは「会社が従業員に対して、労働の対価として支払う報酬のこと」です。私もひとりの社会人として、学校法人昌平学園から毎月給料をいただいて働いています。給料をいただくことはあまりにも当たり前のことなので、これまで改めて考えてみることは全くありませんでしたが、この言葉を聞いて、自分はどうだろうか…と改めて考えてみました。質問の仕方を変えて、「給料のために働いているのか」と自分に問いかけてみました。確かに家族を養い、日常の生活を維持しなければいけないという意味では「給料のために働いている」と言えなくもありません。ただ、本当にそのためだけに働いているのかというと、決してそうではありません。世の中にはさまざまな職業がありますが「教員」という職業に就いている以上、そこに大きな「使命感」を持って日々働いているつもりです。教員という「人を育てる」という尊い仕事についている以上は、そのための努力は惜しんでいないつもりなのですが。今の立場となってからは教壇に立って授業をすることはありませんが、校長という立場でやるべきことを常に模索しながら毎日を過ごすよう意識しているつもりです。そうした意味では「働いて給料をもらっている」ということを自覚しているつもりですが、この言葉を聞いた時に何とも言えない落ち着かない気持ちになったのは事実です。その理由について時間をかけて考えてみました。そこで思い当たったことは、果たして自分自身は十分に働いているのだろうか……という自問自答でした。
まだまだできることがあるのではないか。
もっともっと動けることがあるのではないか。
毎日の仕事に全力で向き合えているのだろうか。
ベクトルを自分自身に向けると、次々と疑問が湧いてくるばかりです。もしかしたら、給料をもらうことが最優先事項になり、本当はもっと大事にしなければいけない何かを見失ってしまっているのではないか。一度考え始めると頭の中にその疑問がずっと残ってしまい、堂々巡りを繰り返してしまいました。そんな時にこの言葉の出典はどこなのかが気になり、インターネットで調べてみました。この言葉は、日本の実業家で、第4代松井証券社長であった松井道夫さん(現在は顧問)の言葉であることを知りました。そして、この言葉には続く言葉がありました。
「給料をもらって働く人」と
「働いて給料をもらう人」は違う。
前者は「会社に従属する奴隷」に過ぎないが、
後者は「主体性をもった個」だ。
「奴隷」という物騒な言葉はともかく、「主体性を持った個」という表現にとても救われた思いになりました。少なくとも毎日、主体的に仕事に向き合っていることに迷いはありません。ただし、時にその「主体性」を見失い、前例や慣習にとらわれ、ある種の「受け身」になっているという自覚が、自分自身の気持ちの落ち着きのなさにつながっていることに気づかされたのです。この言葉を最後まで知って、主体性=自分自身の意思や考えに基づいて行動することこそが「働いて給料をもらう人」であると自分の中で納得することができました。そして、一日の仕事をなんとなく熟(こな)してしまうような時があるので、そんな時にはマインドセットを切り替えて、主体的に物事に向き合うよう心掛けたいと思いました。これからも自分を見失いそうになった時には、この言葉を思い出して切り替えを図っていきたいと思いました。
BE SHOHEI
明日もいい日になりますように!